月別アーカイブ: 7月 2010
早朝より野菜の収穫
週に2~3回、新聞配達で午前4時半に起床する生活を長年続けているので、もう目覚時計は必要が無いかもしれません。それでも、もしもということがあってはいけないので今も使っていますが、大抵は時間前に起きます。
朝食までの時間を有効に使えないかとマラソンを続けていましたが、頚椎ヘルニアの再発で現在は中止。 今年は、空いた田んぼに南京、サトイモ、オクラなど11種類の野菜を植え付け、早朝に世話をしています。害虫、雑草との闘いの毎日です。
長雨や猛暑が続いたりで、野菜たちも大変な毎日だと思うけど、それでもボツボツ収穫が出来るようになってきました。
本日、早朝に収穫してきた野菜
向かって右からナタ豆、オクラ、南京、サンド豆。 無農薬だから虫に喰われることも多いけど、まあまあの出来だと思います。
ナタ豆
収穫が遅れると、びっくりするほどデカくなる
おひたし、天ぷらなどで美味しい
オクラ
料理の幅がひろい
毎日収穫しないと、あっという間に大きくなります
品種が違う南京
この間、3個、お猿さんに持っていかれました
サンド豆
わが家では、塩茹でが好評です
娘がえらい気に入って食べてます
美容にでも良いのだろうか?
私の、何時もの朝食
自家製納豆に収穫したばかりのオクラ、小魚、ねぎを混ぜ、ご飯にのせます。それに一杯の味噌汁。
富有柿も大豊作か でもお猿さんが・・・
サクランボ、ビワ、コンメなどに続き、富有柿が大豊作になりそうです。昨年は、裏年に加え、台風で落果してしまい、収穫できたのはたったの7個。今年は、期待できそうです。
一昨年は大豊作で、果実が大きくなるにつれて、枝が垂れ下がり、出入りの時、車体にゴトゴト当たったので、今年は、邪魔な枝は除去しています。
適度に摘果してやれば豊作、不作が無くなり、安定した収量が得られるのですが自然のままに任せています
薬剤散布も一切しません
人間様のお持ち帰りも自由です
あれば、あるだけ食べてしまうので糖尿病に気をつけています
美味しそうだと思われた方は、お持ち帰りください
10月の中旬頃から食べられます
気の早いお猿さんが悪さをしに来ています
まだ、柿の味はしないだろうけどね
油断をしていると集団でやって来て、あっという間に全滅してしまいます
稲の出穂も始まったので、農家の方は、これからお猿さんたちとの戦いが始まります
最後の訴え
長かったような、短かったような選挙戦。10日、最後の訴えを牟岐駅前で行った。
ある党員は、脳梗塞で半身が不自由になったが、リハビリになるとビラ折りをしたり、ゆっくり歩きながらのビラ配り。また、ある党員は、腰痛で歩くのが大変なため運転手を引き受けてくれた。いずれも、日本の政治を少しでも良くしようとの思いからだ。
写真には写っていないが、もう一人参加している。最初で最後の駅立ちだったが、今回の選挙では、猛暑の中、ビラ配布で奮闘した。
駅前での街宣は、今回で3回目だが、毎回、見知らぬ人が手を振って激励してくれる。わざわざ近くまで来てくださって、「消費税の増税は困る 共産党頑張って」と声をかけてくださった方も。
女性の方が、「藤元さん頑張って」と気安く声をかけてくださったが、名前を知らない。顔は知っているのだが、今更、「どちら様ですか」とも聞けない。こんな時困る。
とにかく、今度の選挙で日本の政治が良い方向に向かう糸口でも見い出せればと思うのだが・・・
ラジコンヘリで防除
初孫です
「ひろ子んね」が逝ってしまいました
7月1日の朝、母から、羽ノ浦の叔母さんが脳梗塞で危ないらしいと、携帯に連絡が入った。あわてて、阿南中央病院に駆けつけたが、すでに息を引き取ったあとだった。突然のことで病室には、旦那さんと長女のみであった。享年72歳。
直接の死因は、脳梗塞であるが、叔母は、長女を出産した頃からであろうか、リウマチを患っていた。だからもう40年ほどリウマチと戦ってきたということになる。中央病院にも、ここ10年、入退院を繰り返していた。リウマチは、本人はもちろんであるが、周りの人間にとっても辛い病気だ。生殺しのように、病気は徐々に進行していく。叔母の手の指は、あちこちにひん曲がり、それも骨が無くなったかのように、柔らかくゴムのようになっていた。実は、ここ数年間のうちに両足の切断もしていて、体重も26キロまでになっていた。時々、見舞いに行ったが、行く度に病気が進行しているのが素人目にもはっきり分かり、声をかけるのが辛かった。あっけない最後だと旦那さんも話していたが、もうリウマチとの戦いは十分だ。ゆっくり休んで欲しい。
本人はもちろんだが、旦那さんも大変だった。 看病疲れか体重が10キロも減ったそうだ。10年ほど前に、某フェリー会社の役員を辞職し、夫婦でリウマチと戦ってきた。夫婦生活の大部分をリウマチとの戦いに費やすことになってしまったが、夫婦仲良く、最後までお互い支えあってきた。
59歳の私であるが、いまだに「ひろ子んね」と呼んでいた。いろんな思い出が浮かんでくる。私の子どもたちも良く可愛がってくれた。
もう直接、「ひろ子んね」と呼ぶことは出来なくなってしまったが、私の心の中では、何時までも「ひろ子んね」のままだ。
在りし日の「ひろ子んね」
長女の結婚式で